――なぜ自分だったのだろう、と数え切れないほど考えた。
他の誰かであればよかったのに、と何度も恐ろしさに逃げ出したくなった。
けれどきっと、幾度でもこう思い直すのだ。
それでも誰も自分からは逃げられない。この役目を例え誰かに譲れるとしても、私は嫌だと言うのだろう。なぜなら、ここまで積み重ねてきたすべてを投げ出すことになるからだ。これまでのすべてが無為に終わることになるからだ。
それは自分の今までに対する裏切りだ。存在に対する叛逆だ。それだけはどうしたってできない。人生に嘘をついた瞬間、私の生命は滅び始める。生きていたいのならば、この道を進む他に選択肢はない。
宇宙が生まれ、文明が興っては滅び、流されてきた血の大河は天の川さえ赤く染め上げる。数十億年かけて築かれた屍の山。それほどの積み重ねがたったひとつの選択でふいになるかもしれない、それが何よりも恐ろしい。
いっそ不思議なほどに、自分の役割を貫徹するということにかけては、私は手段を選ばない。進めば傷つき懊悩するのだとどれほど知っていても、進まないという選択肢がない。それが見守っている誰かを悲しませたりするのだと分かっていても、貫かずにはいられない。魂に刻まれた衝動は私の臆病さを真っ白に塗りつぶし、絶えず生を戦いへと駆り立てる。
何を犠牲にしてもここに立つのだと、始まりの時から私はきっと知っていた。
――物語は、これほどまでの運命を、私に配している。
*二千二十三年 二月十一日
節分を超えたとはいえ、まだ冬の寒さも続く中、その日はやけに温かい日だった。
福井県は勝山市、平泉寺白山神社。背後には純白の冠雪を戴く白山の連峰が控えている。
雪国だからと雪中行軍を半ば覚悟していたにも関わらず、訪れた人間が拍子抜けするほど、道中のアスファルトは雪の欠片も見当たらず、日光に照らされ完全に露出して乾いていた。その一方で、厳かな鎮守の森は雪を陽の光から守り、現世と神の領域を確かに区切っていた。
ぽつりぽつりと参拝客はいるものの、境内に人気はほぼないと言ってもよい。膝丈まで積もった雪を人がすれ違える程度に細く掻いただけの、一直線の参道はやがて拝殿に辿り着くが、さらにその先、神域の最奥に鎮座する本社を前にして、二人の男女が向きあって立っていた。親子ほど年が離れた組み合わせだが――関係は、師弟というのが一番近いだろうか。
朝の九時に約束通りに大阪の某駅前で待ち合わせ、車に乗って三時間。遠路はるばるやってきて、先ほど参拝を終えたのだが――Mは困り果てていた。
「……何も起こらんな」
隣でぼそっと男が言う。
「そうですか……」
「何か、君の方でシラヤマヒメは言っていないのか。どうしろと言っている」
傍から聞けば、一般の人間は何の会話か皆目見当もつかないに違いない。しかし二人の間では当然のやりとりだった。神は実在し、人間は正しく訓練すれば、彼の存在とも言葉を交わす能力を有する。
Mはうーん、と唸って眉を潜めた。少し、自分の内側に意識を潜らせる。人間の体内とはひとつのミクロコスモスだ。その小宇宙から繋がる彼方の神へ、問いを投げかけた。白山に坐す神、シラヤマヒメへと。
(どうしたらいいのですか、シラヤマヒメ様)
しばらくして、微かな声で応えがあった。
『――南の方へ、お進みください』
「……南の方、と言っています」
「南? 南って言ったって、何にもないやろ」
「そうは言われましても……」
(ヒメは南って言ったもん……)
怪訝そうな師の顔に、Mは内心で肩をすくめた。自分の意識の直観は、南へ行け、そこではない、と告げている。なぜかは分からないが。どうも用があるのはこの拝殿ではないらしい。神域の中でそんなに重要な場所が拝殿以外にあるとも思えないのだが。
「南ってどっちでしょうね……」
「昼時だから、日が差している方――あっちだな」
拝殿に向かって右、Mの後方を師が示した。振り向けば、しかし、やはり何もない。いくつか、小さな社はあるのだが。少し進めば、三宮に続く道とは反対の下り道に見える社がひとつ――どうも、その社が気になるが、自分の感覚が果たして正しいものか、今ひとつ自信がない。
うろうろと、探し回るように二人で歩いた挙げ句――退屈したのか、途中で師は雪だるまさえこさえ出したが――やっぱり気になる、とMはそちらの方に行ってみた。
そして、師が何かに気づいたように、Mが内心気にしていた社に近づいた。ひとつ高いところに構えられた社へ、雪を踏み固めながら短く急な傾斜を上り、こちらを振り向いた。「泰澄さんがこちらにいらっしゃる」
平泉寺を開き、白山権現を祀った僧侶が、その社で待っていた。Mは小さく目を瞠り、師のつけた足跡を辿るよう注意しながら、同じく坂を上って社の前に立った。
「『ようこそいらっしゃいました、M殿』と言っているよ」
話してみなさい、と促され、Mはその社に意識を向けた。
(こんにちは、初めまして。――精神学協会の会員の、Mと申します)
『はい、遠路はるばるようこそおいでくださいました』
穏やかな男の声が、頭の中に響いた。社の傍らに僧侶が影のように佇んでいるのを、微かに感じる。
『本日、新しい神が、この場に立つということは知っていますね?』
(はい。会長から伺っております)
ひとつ、僧侶は頷いた。次いで告げられた一言は、Mの心に空白を生んだ。
『では、……――――――――――』
(え?)
思考が空転する。己の意識の感度を疑う。今の交信について、自分の機能は正常に働いていたのだろうか。何か余計な自意識が入り込んではいなかっただろうか。しかし、確認のために二度聞いても、同じ答えが返ってくる。
Mは、ここで自分はこれからの役割と働きのために、何か新しく神から能力を与えられるだとか、自分の中で何かの制限が解除されるのだと思っていた。自分はこの地に、シラヤマヒメが呼んでいるからと、師に連れられてきた。
「……………………えっ?」
再度驚くと、実際に声が漏れた。何だと顔をこちらに向けた師に、数秒逡巡したあとで、告げた。
「……その……」
「………………」
受けた言葉の内容を話すと、師は幾ばくかの間のあとに、「えぇ……」と当惑したように声を漏らした。師を面食らわせるのはこれで何度目だろう、とMは遠い目をする。しかし心の中で、困惑と同時にどこかで納得していた。なるほど、自分を連れてこいとシラヤマヒメが師に言うわけである。Mがその場にいなければ、それは、確かにどうしようもない。ないのだが、Mは(嘘でしょう?)と茫然としていた。
(神さま……、本気ですか?)
時々思うのだが、この全体の物語を書いた神は、配役をだいぶ間違えているのではなかろうか。そもそも、今さらそんなことをMたちに言って、どうするというのだろう。
「――君と私は、まだ契約をしていなかったな」
本社の前に戻ってくると、師はそう言った。Mは思い出した。そういえば、師と共にこれからあちこち行くらしいとは聞いていたけれども、明確にそれと意識して、契約を結んだ覚えがない。
「どうやら、君とその契約をしないと、この御神業は始まらぬようだ。――そこで、改めて提案なんですが。私と一緒に働きませんか」
自分に向かって差し出された手を、奇妙な感慨を抱いて見下ろした。
――この手をとるためだけに、今日、この日まで足掻いてきた。
それは今生だけではなく、この体になる前から。
数十億年の時の彼方から、いくつもの滅びと痛みを乗り越えて、自分は今日、ここに立って、最後の旅を始めるのかもしれない。
時の重みはいつだって、運命に怯える自分の心を決意の色で塗りつぶす。
自分の役割は分かっている。この時空にすべての宇宙の物語の結末を届けるために、Mの魂は選ばれて、世の始めから、ずっと師を司る存在を待っていたのだろう。開闢の前から定められていた運命に、ようやく自分は辿り着いた。
ためらう時間は数秒にも満たない。
「――はい」
ああ、やっと。自分は、終わるための旅を始められる。
待ち望んでいた、終わりが来た。
胸の奥にあるのは――もう、あまりにも遠すぎて、何が本当だったかさえ分からない、ひとつの魂の記録だった。